恋愛に臨界期はあるのだろうか
2011年2月26日
「希望の道」に収録されているアコースティックライブが素敵すぎて、もう惚れるしか選択肢がない状態です。
※山さん…魚類の心を根こそぎかっさらっていった泥棒さん(痛)
なんであんなに優しい声が出るのか。
爆音もいいけど、柔らかくてゆったりした音の流れに気持ちを委ねる幸福感と来たら。
しかし、選曲も素晴らしいし、初期の曲の言葉の美しさは神がかってるね…。この声と言葉で愛を囁かれて落ちない魚類はいないね。
貴方と私の全てが 永遠が 始まるの
「美しき人間の日々」を歌う前の山さんの言葉に、本当に、切なくなる。最後の言葉に、10年の重みを感じる。
柔らかくてしなやかで。
ライブ行きたいなぁ。
* * * * * * * * * * * *
業務の一環で参加した研修会で、臨界期についてふれる内容があった。主に感覚の臨界期のことで、講師の方は、学術的に確立されてはいないけれど、感性にも臨界期はあるのではないかとおっしゃっていた。
※臨界期…主に身体の感覚の習得、言語の習得で取り上げられる。
私の大まかな理解では、生物は多様な能力を発揮する可能性や潜在性を持っているけれど、ある時期までに適切な刺激を与えて可能性を発芽させてやらないと、それらは脳によって不要なものとして淘汰されてしまう。その時期のこと。
生後すぐの動物に眼帯をして光の刺激を与えないまま2週間以上過ごさせると、その個体は光を認識できない盲目になってしまうそうな。
だから新生児は眼科治療の時に眼帯はさせずに、光を当てながらの治療にするらしい。
語学修得については、子供が母語を習得する時期や、母語+第2言語を混同せずに習得するあたりで出てくる概念らしい。
身体能力や感覚期についてはある程度、臨界期についての研究がされているそうですが、感性についてはまだ確立していないらしい。
そんな話を聞いていて、自分って、恋愛について臨界期に適切な刺激を受けずに(言い方を帰ると殻に閉じこもって刺激を回避して)年齢だけ大人になっちゃっているんじゃないだろうか?と恐ろしくなってしまった。
主に中2~高校あたりの多感な時期なんですが。転校したことによる自分の好意は無価値なんじゃないかという思い、憧れの気持ちが時間の経過とともに薄れていくことへの罪悪感、それにしがみついて、自分は新しい恋をしてはいけないんじゃないかという思い。
転校という子供にはどうにもできない理不尽な外圧で、淡い憧れがぶっつぶされたわけですが、親の仕事という重要事項の前には伝えてもいない片思いなど何の力もなく、相手からすれば名前もろくに知らん相手などどうでもよく、これから知り合っていくどころか数百キロ先にいる連絡手段もない他人からの好意など価値以前に存在も知らないもの。
結婚している大人同士だって、別居していたら気持ちが離れることがあるくらいなのだから、なんの見返りも進展も可能性もない憧れが時間とともに薄れてしまうのは当たり前だろう。
でも、私は自分の気持ちが、外からの理不尽な原因で薄れてしまった事実が許せなくて、永続するはずだと思っていたものを数年で薄れさせてしまったことが許せなかった。
あの、憧れている生活を、片思いを育てる毎日を奪われてしまったあの人を、好きな状態でいなければいけないと思っていた。
他の人を好きになるなんて、そんな自分は許せなかった。
告白して振られるとか、自分なりに納得して諦めることを決めるとか、そうやって区切りをつけられたら次に行けたのだろうけれど。
これらに、恋愛=不純=悪・即・斬な過干渉母親と、何もしなければ何も寄ってこない平凡極まりないレベルの容姿のコンボと来れば、たどり着く答えは喪女以外の何でもないでしょうな。
そして今現在、そういうことに気がついて、改めて恋愛してみるか、と思っても、こう、分からないんですよね…。好きってどういうことなの?どういう気持ちになれば好きってことなの?
好きになったら、どうするの?
好きになったらどうしたいって思わなければならないの?
何も思わないんだけど、おかしいの?
臨界期を逃してしまったら復帰はできないんだろうか…orz
山さんは大好きだが、とても魅力的だが、絶対に私を好きにはならないだろうと言う、手の届かない一方通行の安全圏の人だしな。
勢いで云々はできそうだが。
でも山さんにも選ぶ権利があるか(笑)
※山さん…魚類の心を根こそぎかっさらっていった泥棒さん(痛)
なんであんなに優しい声が出るのか。
爆音もいいけど、柔らかくてゆったりした音の流れに気持ちを委ねる幸福感と来たら。
しかし、選曲も素晴らしいし、初期の曲の言葉の美しさは神がかってるね…。この声と言葉で愛を囁かれて落ちない魚類はいないね。
貴方と私の全てが 永遠が 始まるの
「美しき人間の日々」を歌う前の山さんの言葉に、本当に、切なくなる。最後の言葉に、10年の重みを感じる。
柔らかくてしなやかで。
ライブ行きたいなぁ。
* * * * * * * * * * * *
業務の一環で参加した研修会で、臨界期についてふれる内容があった。主に感覚の臨界期のことで、講師の方は、学術的に確立されてはいないけれど、感性にも臨界期はあるのではないかとおっしゃっていた。
※臨界期…主に身体の感覚の習得、言語の習得で取り上げられる。
私の大まかな理解では、生物は多様な能力を発揮する可能性や潜在性を持っているけれど、ある時期までに適切な刺激を与えて可能性を発芽させてやらないと、それらは脳によって不要なものとして淘汰されてしまう。その時期のこと。
生後すぐの動物に眼帯をして光の刺激を与えないまま2週間以上過ごさせると、その個体は光を認識できない盲目になってしまうそうな。
だから新生児は眼科治療の時に眼帯はさせずに、光を当てながらの治療にするらしい。
語学修得については、子供が母語を習得する時期や、母語+第2言語を混同せずに習得するあたりで出てくる概念らしい。
身体能力や感覚期についてはある程度、臨界期についての研究がされているそうですが、感性についてはまだ確立していないらしい。
そんな話を聞いていて、自分って、恋愛について臨界期に適切な刺激を受けずに(言い方を帰ると殻に閉じこもって刺激を回避して)年齢だけ大人になっちゃっているんじゃないだろうか?と恐ろしくなってしまった。
主に中2~高校あたりの多感な時期なんですが。転校したことによる自分の好意は無価値なんじゃないかという思い、憧れの気持ちが時間の経過とともに薄れていくことへの罪悪感、それにしがみついて、自分は新しい恋をしてはいけないんじゃないかという思い。
転校という子供にはどうにもできない理不尽な外圧で、淡い憧れがぶっつぶされたわけですが、親の仕事という重要事項の前には伝えてもいない片思いなど何の力もなく、相手からすれば名前もろくに知らん相手などどうでもよく、これから知り合っていくどころか数百キロ先にいる連絡手段もない他人からの好意など価値以前に存在も知らないもの。
結婚している大人同士だって、別居していたら気持ちが離れることがあるくらいなのだから、なんの見返りも進展も可能性もない憧れが時間とともに薄れてしまうのは当たり前だろう。
でも、私は自分の気持ちが、外からの理不尽な原因で薄れてしまった事実が許せなくて、永続するはずだと思っていたものを数年で薄れさせてしまったことが許せなかった。
あの、憧れている生活を、片思いを育てる毎日を奪われてしまったあの人を、好きな状態でいなければいけないと思っていた。
他の人を好きになるなんて、そんな自分は許せなかった。
告白して振られるとか、自分なりに納得して諦めることを決めるとか、そうやって区切りをつけられたら次に行けたのだろうけれど。
これらに、恋愛=不純=悪・即・斬な過干渉母親と、何もしなければ何も寄ってこない平凡極まりないレベルの容姿のコンボと来れば、たどり着く答えは喪女以外の何でもないでしょうな。
そして今現在、そういうことに気がついて、改めて恋愛してみるか、と思っても、こう、分からないんですよね…。好きってどういうことなの?どういう気持ちになれば好きってことなの?
好きになったら、どうするの?
好きになったらどうしたいって思わなければならないの?
何も思わないんだけど、おかしいの?
臨界期を逃してしまったら復帰はできないんだろうか…orz
山さんは大好きだが、とても魅力的だが、絶対に私を好きにはならないだろうと言う、手の届かない一方通行の安全圏の人だしな。
勢いで云々はできそうだが。
でも山さんにも選ぶ権利があるか(笑)
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