映画を観に行って来ました。

「死ぬまでにしたい10のこと」です。

感想としては、まず、この邦題で得をしているところと、損をしているところがあるなあ、というものでした。
あらすじとしては、雑誌などでもかかれている通り、日常に追われている23歳女性(二児の母)が、ある日突然、余命2ヶ月を宣告されてしまう。彼女は「死ぬまでにしたいこと、しなければならないこと」をリストにして手帳に書き貯める…。というものです。
その書き貯めてある項目のいくつかは、レヴューでも紹介されている通りに、「爪とヘアスタイルを変える」だとか「娘たちに毎日愛していると言う」「夫以外の男性と付き合ってみる」などです。

鯖はそのレヴューや邦題から、そういうポジティヴな視点に変更することで、残りの時間を充実させる姿やら、何かしらの形を残して死んで行く、ような映画かしら、と思っておりました。

でも、多分、観終えてこの映画の本質というか土台のようなものは、原題の「My Life Without Me」に集約されているのではないかと思いました。

いくえみ遼さんだったかな、「私がいてもいなくても」ってタイトルの作品があったと記憶しているんですが、そのタイトルがぴったり。ちょっとタイトルだけ邦題は浮いている気がしました。
でも、そのタイトルで鯖のように引かれて観に来たヒトもいるので、それはそれでいいのかしら、とも。
※とりあえず、カタカナ表記に逃げるのはカッコ悪いような気がします。結局、そのエッセンスを表現するだけの日本語ボキャブラリーがないってことだから。「タイタニック」みたいに一番中心となるものの固有名詞を題名にしているのはしょうがないけど。

これがね、鯖のトラウマとまでは言いませんけど、ずっと引っかかっていることとぴったりする映画だったのです。気にしてたんです、捕われているんです、みたいな心境と。

鯖もこれの簡易版みたいな経験をしたから。

自分がいなくなっても、日常は続いていくんだ。何もなかったように。そりゃ、多少は動きはあるかもしれないけれど、その波風も時間が癒していく。
また、残らないように消えていくことも、傷を残さないように消えてあげることも、愛情やら慈しみやらの一つのあり方なんじゃないかな。

あれはもう10年前の一時ですが、そういうことを考えた時期がありました。
鯖父は、某企業のサラリーマンで、鯖一家は鯖父の勤務先が代わるたびに、家族で転々としてきました。それが鯖家にとっては当たり前でした。

当時、鯖家はS台とは遠く離れた某県に住んでいて、鯖は中学生でした。
担任の先生には可愛がってもらっていたし、勉強も真面目にしてた。部活で早くスタメンになりたいなと思っていたり、憧れのサッカー部の先輩(←鯖の永遠のアイドル。この日記の初期に思い出話が時々出てきます)はどこの高校に進学するのかな、とそわそわしたりしてました。

そして、ある冬の日に、鯖父が転勤することになって、4月からはS台に引っ越すから、ということになったのです。
所詮、養ってもらってる中学生なので「行きたくない」などということは言えません。
友達?手紙書けばいいじゃない。二度と会えない訳じゃないってこと?
憧れてる先輩?付き合ってるの?…口も聞いたことないです。そんな憧れのために「行きたくない」って言ってもイイ?

バレンタインデーには、鯖友たちは意中の殿方やら先輩にあれこれアプローチしたりしておりました。中には、「鯖も○○先輩に渡してみたら?」と言ってくれる子もおりました。

あと1ヶ月で私はいなくなるのに?
※鯖妹が何かよく分らん拘りを見せたため、ギリギリまで引越し、転校をすることは伏せていた。そりゃ、「いなくなるよ〜」みたいに宣言してしまうといづらいしね。ホントに良くあるマンガみたいに、最後の日に「実は鯖さんは3月末でS台に引っ越します」ってやりました。

言ってイイの?そういうとき。

結局は言えなかったけど。それはただの逃げかもしれなかったし、中学生の遠距離恋愛なんて、ホントにどうなるかも分らないし、今みたいに気軽に携帯やらメールやらがある時期でもなかったから、そんな結論が見えていることを、仮にも憧れているヒトに告げていいのかも分らなかった。
「私、もうすぐいなくなるんですけど、先輩のこと好きです」って言えば良かったのかな。
「なので、来月から遠恋で付き合ってください」って言えば良かったのかな。
迷惑な下級生だなと思われて、そういう形で残るにしろ、好きと言われて悪い気はしないけど、みたいにその場限りの思い出だけをもらってくれば良かったのかな。区切りにくらいはなったんだろうか。

言うだけ言って逃げてくれば良かったのかな。
※ま、結局は言えなかったんですけどね。

そして、私がいなくなった次の日、もちろん私の使っていた教室の席は空席だった。
バタバタとやってきた担任の先生が、「お、そこは誰の席だ、休みか?」と言っていたと聞いた。

私がいない日常は、確実に穏やかに存在しているんだなと思った。
私がいなくても、ほとんどのヒトは平気で、手紙を書いてくれる友人もだんだん少なくなって、今では当時の友人は連絡が取れないヒトばかりだ。

私を可愛がっていてくれた先生でさえそうなのに、話し掛けることさえできずに眺めていた先輩ならなおさら。また、そういうどうでもいい存在だった自分や自分の恋心を再確認するのが辛かった。
なにも知られないで終わったほうが、自分も穏やかでいられると思った。

私の存在って軽いんだなと思った。いなくなってしまえば、何とかなる存在なんだ。

いつもそう思っていた。私のことを、そんなに大切に感じるヒトなどきっといないと思う。
いなければいないで、何とかなるんだと、実際になんとかなっている様子を見ると、よりそれが現実なんだと思う。今でもその思いは私の心から去らない。
相手の気持ちやら何やらよりも、相手の心臓に爪を立てて残りたいと思う、傷になって残りたいと思う気持ちもあるかもしれないけど、何もなく消えられるのなら、そのまま消えて負担のない存在になった方が、相手のためにはいいんじゃないかなと思うこともある。

私が相手を好きな気持ちは残るから。私が好きだったらそれでいいから。

映画の主人公(アン)は、愛していたのはドン(夫)で、リー(途中で出てくる夫以外の男性)は、自分の生き様やら何やらを確認するための触媒のような存在だったんじゃないかと思いました。
身を引くことも、傷にならないように消えることも、一つの愛情表現なのかもしれない。
自分は虚しいし、傷つくし、逃げていただけかもしれないけど。

コメント

鯖

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