未来日記
2001年8月22日あの、人気企画についてです。今はストップしてますが。
鯖は見始めたのが遅くて、福山雅治の桜坂でお馴染みの「スケッチブック」から見始めました。鯖友に進められて。
最初は、うをを、ヨシ!!イーロン!!なんて切ないんだああ、幸せになってくれええと思って、見ていました。まさにウンナンの思うツボ。
しかし、そのつぎの未来日記からは、そこはかとない違和感を感じるようになったのです。
でも、あれは、恋愛とはなんぞやということを考えるときに、多大なる示唆を与えてくれる企画であるということは、また真実でしょう。
つまり、感情は行動に左右されるのか。行動は感情を生むのか。ということですね。
大学のときの教養科目で、
悲しいから泣くんじゃない。泣くから悲しいんだ。
という学説を紹介なさった教授もいました。感情の発露の行動を取るとき、感情と行動のどちらがより根源なのかということは、自分の行動をかえりみても、断言しきれない部分があると思います。
未来日記においては、恋に落ちる二人が取るであろう行動をとることで、感情は生まれるかという、非常に興味深い点を観察することができるわけですね。
これについて考察する前に、なぜ違和感をかんじるかというと、
何故、演じている二人は、自分自身と架空の人物(役柄としての自分)を何の指示もなしに同一化させてしまうのか。という点が整理されていないからでしょう。
仮に、日記の指示でもう会わないということになっても、現代日本でその気になれば興信所でも何でも使って、「現実の私」は相手と再会することは可能です。
相手と会わないのは「役柄としての私」であるのですから。
その、演じる私と役柄の私を故意に曖昧にしているところが未来日記の面白さでもあるわけですが、やはりそこに鯖としては空々しさを感じざるを得ないのです。
あと、山登りとか、そんな試練、恋愛に関係あるのかよ?というような試練が続いたのも、興味が薄れる一因でもあるのですが。
まあ、しょっぱなとしてはそんな感じです。
行動と感情については、いろいろまた書きたいんですが。
それにしても、今やってる「予告告白」って、どんなもんなんでしょうね。好きな相手に面倒をかけようという、その方法がどうも鯖には理解できないんですが。
鯖は見始めたのが遅くて、福山雅治の桜坂でお馴染みの「スケッチブック」から見始めました。鯖友に進められて。
最初は、うをを、ヨシ!!イーロン!!なんて切ないんだああ、幸せになってくれええと思って、見ていました。まさにウンナンの思うツボ。
しかし、そのつぎの未来日記からは、そこはかとない違和感を感じるようになったのです。
でも、あれは、恋愛とはなんぞやということを考えるときに、多大なる示唆を与えてくれる企画であるということは、また真実でしょう。
つまり、感情は行動に左右されるのか。行動は感情を生むのか。ということですね。
大学のときの教養科目で、
悲しいから泣くんじゃない。泣くから悲しいんだ。
という学説を紹介なさった教授もいました。感情の発露の行動を取るとき、感情と行動のどちらがより根源なのかということは、自分の行動をかえりみても、断言しきれない部分があると思います。
未来日記においては、恋に落ちる二人が取るであろう行動をとることで、感情は生まれるかという、非常に興味深い点を観察することができるわけですね。
これについて考察する前に、なぜ違和感をかんじるかというと、
何故、演じている二人は、自分自身と架空の人物(役柄としての自分)を何の指示もなしに同一化させてしまうのか。という点が整理されていないからでしょう。
仮に、日記の指示でもう会わないということになっても、現代日本でその気になれば興信所でも何でも使って、「現実の私」は相手と再会することは可能です。
相手と会わないのは「役柄としての私」であるのですから。
その、演じる私と役柄の私を故意に曖昧にしているところが未来日記の面白さでもあるわけですが、やはりそこに鯖としては空々しさを感じざるを得ないのです。
あと、山登りとか、そんな試練、恋愛に関係あるのかよ?というような試練が続いたのも、興味が薄れる一因でもあるのですが。
まあ、しょっぱなとしてはそんな感じです。
行動と感情については、いろいろまた書きたいんですが。
それにしても、今やってる「予告告白」って、どんなもんなんでしょうね。好きな相手に面倒をかけようという、その方法がどうも鯖には理解できないんですが。
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